取り外した眼鏡は、別段汚れているワケではない。思ったよりも長い待ち時間に、思わず手が動いてしまっただけ。
それにしても……
拭く手を止め、浜島はじっと足元を凝視する。
塵一つ落ちていない、磨きぬかれた床。鏡にすらなりそうなその表面に、厄介な女子生徒の顔が浮かび上がる。
まさか、霞流家と関係があるとは――
集めた情報は乏しい。二人の接点は偶然のもの。火事場に霞流の子息がたまたま居合わせただけと聞く。
霞流の子息―――
浜島は、知らずに薄い唇を噛む。
悪い予感がする。
確かめておいたほうがよいだろう。
すっと双眸を細めたところに、扉の開く音。浜島は瞬時に背筋を引き伸ばした。
たっぷり肺に吸い込んだ煙を、ゆっくりと時間をかけて吐き出す。撒き散らされた靄の向こうで、若さを持て余す仲間が騒ぎまくっている。
数メートル先に広がる海は暗く深く、酔って落ちた者を返してはくれない。
だが、そうやって絶命していった仲間を、彼は憐れだとは思わない。
そもそも仲間など、いない。
「おうっ!」
埠頭のコンクリートにだらしなく腰を下ろしていた彼の後ろから、声が飛んでくる。
煩い……
ワケもなく胸の内に広がる憂いを楽しんでいた彼は、無遠慮な声に不愉快さを感じた。だが相手は、それを気にする様子ではない。
「お前だろっ? あのボロアパートに火ぃ付けたの。捕まったヤツの仇討ちだって?」
顔を覗き込んでくる相手へ、彼はホワッと煙を吐きかけた。
「っぶへっ! グヘッ!」
目か喉に沁みたのか、相手は闇雲に両手を振り回して煙を追い払う。
「何すんだよっ!」
「べつにぃ〜」
トロンとした瞳を向けて、間延びした声を発する。
「おめぇっ!」
その言動に相手は怒りを露にする。だが
「おうっ そいつはやめとけよ。ケガしたくなかったらな」
咎められた少年は、怒り収まらぬ顔で彼の足元に唾を吐きかけると、その場から離れた。
新顔だろうか? 見たことのない顔だが、ずいぶんとデカい態度だ。
「あぁ見えて、腕は立つぜ。アイツに絡むのはやめときな」
背後の声に、思わず口元が緩む。その脳裏に、今さっきの言葉が浮かぶ。
「お前だろっ? あのボロアパートに火ぃ付けたの」
――― そうとも
俺さ。俺が付けたのさ。
病的なほど色白の痩せた顔に、下卑た笑みが浮かんだ。背中に流れるやや茶色の髪を一房取り、口元に当てて、なお笑う。
仇討ち?
なんて無意味な言葉なんだろう。
そんなモノのためにワザワザあんな辺鄙なところへ足を伸ばし、火を放ってくるほど自分は酔狂ではない。
「……… さて、どうする?」
タバコを加え、胸いっぱいに吸い込む。ゆっくりと吐き出した煙は、まるで魔女の掻き混ぜる鍋から湧き上がるかのよう。薄気味悪い形を作り、やんわりと消える。
「いつまで隠れているつもりだ?」
焦点の定まらない視線を暗闇へ向けると、ぼんやりと少女の姿が浮かびあがる。
「早く出てこい」
呟くと愛しさが湧き上がり、彼は少し驚いた。
だが、不快ではない。
「出てこいよ」
手にした髪の毛で唇を撫で、なお一層、楽しそうに笑った。
「早くしないと――――」
大迫美鶴が死んじゃうよ
------------ 第2章 真紅の若葉 [ 完 ] ------------
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